SSブログ

モテない男、納豆で痩せる? Ⅱ

さて、おとといから連載形式で「人々はなぜ『納豆ダイエット』を信じたのか」を分析してます

2日まえの記事を読んでないヒトは>
http://blog.so-net.ne.jp/shunchi-88/archive/20070222

(以下おとといからのつづき)

科学的知識の真偽と信疑

 まず、今回の納豆に関するデータのような科学的な知識に関して、それを信じるとはどういうことかを探る。はじめにこれを問うことには重大な意味があるだろう。なぜならば科学的知識と社会との関係においては、社会がその知識を信じるかどうかが、その関係のすべてを決定するからである。そこで、科学的な知識の性質に注目しながら、その知識を信じることとはどういうことかを探っていくことにしよう。
 科学的な知識の性質のなかでも、ここでは特にその専門性に注目する。専門性とは、つまり、科学的知識が一般大衆からは理解されにくいものだということである。たとえば現在かなりの数の日本人がパソコンを使用しているのに対して、パソコンの構造を詳しく知っている者は数少ないのではないか。科学的知識とは専門外の人間には理解の及ばない世界で、門の内側でしか通じないことが普通なのだ。
 この専門性(理解されないという性質)から今回のデータ捏造に関して言えるのは、視聴者にデータの過ちを指摘することはまず不可能だということだ。理解ができないものは否定も肯定もできない。ただ、わからないのだから。無知な視聴者に納豆の成分に関する知識に基づいてデータの正否を論じることなどできるはずがない。要するに、科学的知識は社会から否定されることはないのだ。
 また、専門性からもう一つのことが言える。専門性とは、一般大衆からは理解が難しいという性質のことだが、理解できないものとは信じられることではじめてその存在意義が生まれる。言い換えるなら、科学的な知識とは一般大衆に信じられない限り、一般大衆にとっては何の意味も持たないということだ。「納豆ダイエット」に関して言うなら、捏造された納豆のデータが仮に視聴者に信じられなかったなら、データ(知識)は、そして番組は無意味であったろう。もちろん科学的知識が技術と結びつく形で実行力を持てば、信じるか否かに関わらず社会に対して影響力を持ちうるが、知識それ自体は信用されない限り専門の外側の大衆にとっては空虚な存在なのだ。
これまでの専門性に関する二つの議論をまとめると、大衆が科学的知識を信じることとは、そのけっして否定されることのない知識を、社会的に存在せしめることであると言える。つまり、科学的知識は、否定されることはなく、いったん正しいと信じられてしまえば社会では通用してしまうのだ。すなわち、捏造された科学データは視聴者の信頼を勝ち取りさえすれば、科学的には偽であっても、社会的には真になりえるのだ。

つづく


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。