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モテない男、自動車に乗る


久々の更新になってしまいましたが…まぁ、自動車教習所に通ったりしていて急がしいんですよ。

あくびをしながら道交法を学び、緊張しながら実技運転をしています。

先日、東京にあられが降ったじゃないですか。
その日に実技教習があったんですけど…まぁ、たいへんでした。

悪天候であったがため、うまく運転できるか不安だったんですね。
だから、やさしい教官を望んでいたんですが、

見事、Sの女性教官
「アクセル強い(怒)」

…彼女は自分が俺の運転する車の助手席にはじめて乗った女性であることをわかっているか?
たぶんNOだな。
ツンデレをまったくわかってないし。
二人きりの車内なんだからもっと「デレ」の雰囲気でもいいと思うんですよね。

教官だけじゃなくて、ワイパーまで口うるさいし。

いや、うるさいのは俺も一緒か…質問攻めにしたからな。
だから彼女怒ったのかなぁ。

俺はどの教官に対してもコミュニケーシャン過剰になってしまうようで。
でも、ものを教わってると自然に疑問点が沸いてきて質問したくなるじゃない?

まぁ、
「つぎ、この信号守りますか?」
はやりすぎたな。

基本的に会話が苦手なのだな、俺は。


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モテない男、理屈に負ける

最近、大学が休みなのに勉強してます。
おおざっぱに言うと西洋の哲学を。

でぇ、哲学なんかを勉強してると、まぁ、ある程度の論理的思考能力は鍛えられるじゃないですか。
「プラトンのいう魂っていうのは…」とか眉間にシワよせて考えてるんだから。

しかし、この育ちゆく論理性はモテない要素の一つなんじゃないか、とも思えたりすんのよ。

時に人は冷静な判断より、情熱的な共感を求めるじゃないですか。
たとえば、女の子二人AとBが会話してて
Aが
「あれ、ありえなくない?」
とか言いますよね。
ここでBは
 選択肢1、「いや、あの場合は○○だから、あってもいいんじゃない?」

 選択肢2、「ありえな~い!」
のどっちを答えたほうが会話がスムーズに進むかは自明でしょう。
Aに対して、Bは冷静な判断で答えるより、共感を示す方がお互いの関係はいいじゃない。

だから、時にこの冷静な論理性っていうのが、相手に冷たさとして認識されていそうな気がします。
哲学なんて、引きこもりっぽいことやってちゃあかんのかもしれないな。


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モテない男、納豆で痩せる? Ⅲ


こちら連載シリーズですので、初めての方は
http://blog.so-net.ne.jp/shunchi-88/2007-02-22

では、つづき

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モテない男、納豆で痩せる? Ⅱ

さて、おとといから連載形式で「人々はなぜ『納豆ダイエット』を信じたのか」を分析してます

2日まえの記事を読んでないヒトは>
http://blog.so-net.ne.jp/shunchi-88/archive/20070222

(以下おとといからのつづき)

科学的知識の真偽と信疑

 まず、今回の納豆に関するデータのような科学的な知識に関して、それを信じるとはどういうことかを探る。はじめにこれを問うことには重大な意味があるだろう。なぜならば科学的知識と社会との関係においては、社会がその知識を信じるかどうかが、その関係のすべてを決定するからである。そこで、科学的な知識の性質に注目しながら、その知識を信じることとはどういうことかを探っていくことにしよう。
 科学的な知識の性質のなかでも、ここでは特にその専門性に注目する。専門性とは、つまり、科学的知識が一般大衆からは理解されにくいものだということである。たとえば現在かなりの数の日本人がパソコンを使用しているのに対して、パソコンの構造を詳しく知っている者は数少ないのではないか。科学的知識とは専門外の人間には理解の及ばない世界で、門の内側でしか通じないことが普通なのだ。
 この専門性(理解されないという性質)から今回のデータ捏造に関して言えるのは、視聴者にデータの過ちを指摘することはまず不可能だということだ。理解ができないものは否定も肯定もできない。ただ、わからないのだから。無知な視聴者に納豆の成分に関する知識に基づいてデータの正否を論じることなどできるはずがない。要するに、科学的知識は社会から否定されることはないのだ。
 また、専門性からもう一つのことが言える。専門性とは、一般大衆からは理解が難しいという性質のことだが、理解できないものとは信じられることではじめてその存在意義が生まれる。言い換えるなら、科学的な知識とは一般大衆に信じられない限り、一般大衆にとっては何の意味も持たないということだ。「納豆ダイエット」に関して言うなら、捏造された納豆のデータが仮に視聴者に信じられなかったなら、データ(知識)は、そして番組は無意味であったろう。もちろん科学的知識が技術と結びつく形で実行力を持てば、信じるか否かに関わらず社会に対して影響力を持ちうるが、知識それ自体は信用されない限り専門の外側の大衆にとっては空虚な存在なのだ。
これまでの専門性に関する二つの議論をまとめると、大衆が科学的知識を信じることとは、そのけっして否定されることのない知識を、社会的に存在せしめることであると言える。つまり、科学的知識は、否定されることはなく、いったん正しいと信じられてしまえば社会では通用してしまうのだ。すなわち、捏造された科学データは視聴者の信頼を勝ち取りさえすれば、科学的には偽であっても、社会的には真になりえるのだ。

つづく


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モテない男、納豆で痩せる?

大学生なんでレポートとか書くのよ、やっぱ

で、現在2本のレポートを抱えてるんよ

ひとつは、Mフーコーの書いた倫理の系譜の中で現在をとらえる、とかいうもう自分でも
「どうすんの?どうすんのよ、俺? つづきはwebで」
みたいになるようなヤツなのね (ていうか、今webにいるのか)

もうひとつが人々はなぜ『発掘!あるある大辞典Ⅱ』を信じたのか、についてなんですよ
社会心理学、脳科学、アニメ文化学などの多様な視点から「納豆ダイエット」信仰を分析してます

そこで、今日から少しずつ、その内容を当ブログで掲載しますのでどうぞ見てやってください

(以下引用)

title: 『あるある詐欺』から考える、科学的知識と社会

序文
2007年1月、関西テレビ製作のテレビ番組『発掘!あるある大辞典Ⅱ』で紹介された「納豆ダイエット」が納豆の一大ブームを巻き起こした。全国各地のスーパーマーケットでは納豆の売り切れが相次ぎ、生産が追いつかないことについてメーカーが消費者に対しての謝罪文を新聞各紙に掲載したほどだった。だが番組放送の約二週間後に番組で扱われたデータの一部が捏造されたものだと発覚する。ブームが大きかっただけに、捏造が発覚したときの社会的反響も大きかった。朝日新聞は発覚の翌日のトップ記事でこれを報じ、ワイドショー等でも大々的に取り上げられた。また報道を信じて、踊らされた消費者が受けたショックもまちがいなく大きかったのだ。
このレポートでは、この事件がまだ熱を持っているうちに、オンタイムで事件の孕む問題にアプローチしていく。だが、ただ一言に問題といっても多くの問題があり、またそれによってアプローチのしかたも多様になるだろう。たとえば、マスコミの報道倫理を挙げてもいいし、番組制作の発注を請けた下請け会社と親会社の格差関係を取り上げてもいいだろう。もしくは、科学者が科学報道とどう関わり、大衆へ正しい知識を与えるか、などという科学者の役割を論じてもいいだろう。しかし、ここではマスコミや科学者ではなく、それらと関わる一般大衆=視聴者=消費者に焦点を合わせる。つまり、なぜ視聴者は無批判に捏造された科学データを信じ込み、踊らされるに至ったか、を問いたいのだ。この問いから、いかに偽りの科学的知識が疑われることなく、真実として社会に通用していくかが見えてくるだろう。

つづく


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